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平凡


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二葉亭四迷【著】
新潮社(新潮文庫)刊
1949(昭和24)年5月発行
1968(昭和43)年12月改版


作者最後の小説作品であります。
二葉亭四迷といふ人は、『浮雲』にて言文一致小説の草分けといはれ、現代にその名を残してゐます。
日本近代文学全集では、坪内逍遥とともに必ず筆頭に数へられ、日本文学史上重要な位置を占めてゐる...のですが、その能力に比して不遇の人といふ印象が拭へないのであります。
本人も「俺はこの程度で終る人物ではない!」と考へてゐたのではないでせうか。少々度を越えた卑下描写は、その裏返しと見るが、どうか。

この『平凡』執筆当時は、自然主義文学といふ一派が主流になつてゐたさうです。島崎藤村とか、以前取上げた田山花袋とか。「作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加へず、有のままに、だらだらと、牛の涎のやうに書くのが流行るさうだ。好い事が流行る」と痛烈に皮肉り、自分もそれで行かうとおちよくるのです。
もちろん『平凡』は、自分の体験が元になつてゐるとは言へ、純然たるフィクションであります。清水義範風に言へば、自然主義文学のパスティーシュとでも申せませうか。

本人が語るごとく、幼時からの半生を時系列にだらだらと綴ります。
祖母の死、愛犬ポチの悲劇、上京、雪江さんへの想ひ、文学への転向、お糸さんへの入れ込み、父の死といつた出来事が中心になりませうか。
余人が書けばもつと深刻かつ陰惨なものになるでせうが、生来の戯作者魂が幸ひしてか邪魔をしてか分かりませんが、読後感は重苦しいものから逃れてゐます。

ところで、本筋とは関係ありませんが、気になる表現が一つありました。
最初の方で(「三」の項)、母親について「手拭を姉様冠りにして襷掛けで能くクレクレ働く人」と記してゐます。しかも2度も。「クレクレ」つて何でせうか。まめに働くといふイメエヂなのでせうか。当時流行つてゐた副詞なのか?
本書には巻末に「注解」が付されてゐますが、「クレクレ」には何も触れられてゐません。「自然主義」だの「モーパッサン」だのに注解を付けるより、此方を教へてもらひたいと思想したのでした。

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